津田越前守助廣  刀
001-081
表 銘津田越前守助廣 元 幅32.5mm
裏 銘なし 元 重8.0mm
刃 長二尺0寸六分 先 幅24.0mm
反 り五分 先 重6mm
登 録東京都文化財保護委員会 昭和26年3月 目釘穴1個
江戸時代
金ハバキ
日本美術刀剣保存協会 特別貴重刀剣認定書付

参考品
津田越前守助廣のこの刀は『新刀鍛冶網領図録』に掲載されています有名なものです。寒山伝来極メ鞘書き・昭和26年東京都登録・谷子爵の添書・谷干城陸軍中将(谷子爵)愛刀の1口です。幅広無疵健全傑作刀 元幅、先幅、重ね、研減の見られない無疵健全刀であり、小板目地景織りなし清々しい地鉄は微塵の緩み、疵、欠点は無く、地沸すくよかな広直刃は明るく小沸で冴え渡り、刃中金筋も現れています。幕末の志士坂本竜馬を敬愛、土佐藩倒幕の志士谷干城が愛刀とされた確かな1口です。 津田越前守助広は摂津国打出村(現在の芦屋市)に寛永14年(1637)に生まれ、通称を甚之丞といい、初代助広(そぼろ助廣)の養子となり、初代の死後、後を継ぎ21歳の若さで越前守を受領し、寛文7年(1667)には大阪城代青山因幡守宗俊に抱えられ大阪新刀の代表工であり巨匠です。江戸の虎徹(東の横綱)と共に新刀の横綱(西の横綱)ともいわれています。津田越前守助廣は初期には大阪新刀諸工に見られる足の長い丁子刃を焼くが壮年期に大五の目乱れを波に見立て、地に玉焼きを支える濤欄刃を創造し後世を含め諸国の刀工に多大な影響を与えました。又津田越前守の作品は3分の1は直刃後の三分の2は濤欄刃です、が津田越前守助廣の技術の高さを見るにはこの直刃の1口が最適と思います。越前守助広が直刃を焼いた場合は造りこみも細身となり、刃文は横手下に浅い互の目を焼き横手辺りから焼幅を広めて帽子もやや直線的になる、特に地鉄であり小板目肌が極めて良く詰み、地沸を微塵に厚く敷きみずみずしく潤いのある冴えたものとなり、地鉄が精良なることは他の大坂新刀諸工の追随を許すものではありません。 谷干城:高知生まれ、陸軍軍人、政治家、武知瑞山(武知半平太)のもと尊王攘夷運動に加わり薩土の連携に尽力戊辰戦争に大軍官として従軍明治4年に陸軍大佐に任官され 、西南戦争では熊本城を死守しました。陸軍士官学校長などを経て学習院長に就任、第1次伊籐内閣農相務相、欧州視察後、政府の欧化政策、条約改正に反対し大臣を辞職し、23年(1890)貴族院子爵議員となり、三浦梧楼等と共に対露平和論を唱えました。
































   



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